Zero-Alpha/永澤 護のブログ

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「汎優生主義」のリミット
永澤 護
はじめに
本論は、「この私は他人より、生存に値するか」という価値軸に沿って、我々一人ひとりが際限なく階層序列化されていく社会的過程を論じる。それは、「汎優生主義(Pan-eugenics)」という新たな社会的過程である。

1.序論:社会的過程としての<我々自身の無意識>の基礎論的位置づけ
まず、我々が、次の一連の質問に答えることを想定してみたい。質問は、次の三つである。
下記のそれぞれの発話文を読んで、最初に頭に浮かんだ言葉を記述して下さい。
問1:<これからは、自分の子どもが生まれてくる前に、その子どもの遺伝子を変えることができるようになるかもしれない。どういうことかと言うと、もしこれまでのように何もせずにそのまま生まれてきたとしたら、成長するにつれて難病などになってしまうことがあらかじめ分かっているような子どもでも、これからはそうはならないようにすることができるということだ>
問2:<さっき言ったことをさらに進めて言うとこうなると思う。これからは、子どもが生まれてくる前に遺伝子を変えて、何もせずにそのまま生まれてきたときよりももっと健康だったり、背が高かったりする子どもを産むことも技術的にはできるようになるということだ。本当にそうなるかどうかは分からないが。すると、カップルの希望に応じた子どもを作るといったSFのような話も夢ではなくなるかもしれない>
問3:<もっと身近な、もうすでに始まりつつある話もある。個人個人で違う遺伝子を検査したり診断したりすることによって、これから生まれてくる自分の子どもに、さっき言ったような何か深刻な問題が見つかったとしても、産みたいと思ったこどもだけを産むことができるようになるということだ。遺伝的な問題は、ある特定のガンになりやすいとか、アルコール依存症になりやすいとか、さらには攻撃的な性格になりやすいとか色々なことが考えられるようだ。ともかく、治療方法のない難病などの場合、それが個人やカップルの選択によるのなら、受精卵を廃棄したりして出産をあきらめてもやむを得ないと思う>
こうした質問に答えることにおいて作動する<我々自身の無意識>を想定しよう。それは、我々にとって意識化されることがない社会的過程である。この社会的過程は、以後、「汎優生主義(Pan-eugenics)」と呼ばれる。そこでまず、この<我々自身の無意識>を、先の質問のテーマである遺伝子の改変との関係において位置づけてみたい。
まず、遺伝子の改変が現実化した場合、この技術的過程は、<我々自身の無意識>を介して社会的に継承されることになる。すなわち、個々人の選択に際して、技術的な力による子どもの生産という現実が、強制力として作用する。すなわち、我々がいったん遺伝子改変という技術によって作られた生(子ども)を産み出してしまえば、そうして産み出された子どもは(そしてそれ以外の社会の成員も)、そういった現実の強制力のもとへと組み込まれる。
ところで、人の属性の序列化は、属性の序列化に応じた、そのような属性を持った人の生存自体の序列化でもある。属性を序列化する価値観は、生存それ自体を序列化する価値観なのである。こうした価値観は、「遺伝子疾患」という属性を持った人の生存は、そうした属性を持たない人の生存に比べて「より価値が低いもの」であり、「本来はその出生(生存)自体が予防され得た」という社会的強制力のもとにある。遺伝子の改変・治療・予防等が不可能な事例であっても、それが現実に可能な事例がすでに存在している(と想定される)なら、本来はその出生(生存)自体が予防され得たという序列化が生じる。
そうした強制力が偏在する世界のイメージとはどのようなものであろうか。そこでは、「遺伝子改変により難病等の属性が除去された状態」と「いまだ除去されていない状態」という階層序列がつねにすでに前提されている。無意識においては、「先天性疾患という属性を持った人の生存の出生(生存)は、本来予防され得た」という言葉が際限なく反復されている。
このような世界は、苦痛であるというよりも、むしろ耐え難く退屈な世界であろう。そこでのキーセンテンスは、「なんだかつまらない気もする」である。それは、今風に言えば、際限のない「ダルさ」を表現している。それは、「もはや、あるいはつねにすでに、すべては超微細レベルで決定されている」といった言葉の際限のない反復で表現されるような「ダルさ」である。ここにおいて、あらゆる時間の関節が外れたかのような、「なんだかつまらない」世界が見出される。だが、個々人が<我々自身の無意識>に直面するという事態はあらかじめ排除されている。
もしある個人が、遺伝子の改変という問題に直面するなら、そこでは、この私の選択する行為がヒトという種の改変をもたらすことへの認識が求められる。私は、自らが選択した行為の結果としてその責任=応答可能性(responsibility)を引き受けなければならない。だが、この問題に関しては、どのような個人も厳密には責任を取ることができない。もし我々が、種を改変し得る選択をなし得たとしても、その選択の時点から際限なく続く時間の中でのヒトという種の変容に対する責任=応答可能性を負うことはできない。我々は、「原理的な無責任」、あるいは「原理的な応答不可能性」を強いられてしまうのだ。
以後の論述では、上述した「汎優生主義」という社会的過程を、我々自身の現在に向けて着地させることを試みる。

2.「汎優生主義」の展開――「ユビキタス社会」の登場とデータベースの実践
「優生主義」とは、国民全体の質を改善し向上させること、すなわち、「不良な子孫」を除去することによって、一定の人口集団の力を強化することを理念に掲げ、障害者、精神病者、難病患者、感染症の患者等を負の社会集団として選別の対象とする思想と実践である。1996年、母体保護法へと書き換えられる以前の優生保護法(1948年施行)は、ライ予防法と歩調を合わせながら、第1条「この法律の目的」を「優生上の見地から不良な子孫の出生を防止するとともに、母体の生命健康を保護すること」としていた。刑法の堕胎罪は残存しており、優生保護法は、「不良な子孫」の選別・抹消のための堕胎(人工妊娠中絶)を例外として許認可する「優生政策」として機能してきた。また、母体保護法も、「汎優生主義」へといたる社会的な流れに適合的する。
現在、生活習慣病などに関わる遺伝子(「肥満遺伝子」等)に言及する言説が目立つ。ここで、母体血清マーカーの遺伝子検査が、不特定多数を対象とするマススクリーニング方式として注目される。この検査により、あらゆる個人を遺伝的リスクに従って選別することが可能になる。(注1)
我々は、個人、カップルの選択による遺伝性疾患の診断、治療、予防を推進する思想と実践の総体を、「新優生主義(Neo-eugenics)」と呼ぶ。この「新優生主義」の潮流が、「汎優生主義」へと深化を遂げていくことになる。
さて、「ユビキタス(ubiquitous)」という言葉は、「偏在する/どこにでもある」の意味を持つラテン語に由来する。「ユビキタス社会」とは、日常生活のあらゆる場面で、「この私は他人より、生存に値するか」という問の答がすでに与えられているような世界である。以下に、そんな一見夢のような社会の実現に関わる事例を紹介する。
事例1:「第16回 朝日ヤングセッション 坂村健講演会「トロンの夢・ひとの夢」(主催/朝日新聞社 後援/文部科学省・東京都教育委員会 協賛/協和発酵)に関する広告記事」(2003.11.15.朝日新聞)
「世界で一番たくさん使われている組み込みOSのトロン。その開発者である坂村健氏が推進する、どこにでもコンピュータがある環境「ユビキタス・コンピューティング」。あらゆるものに数ミリ角の大きさのコンピュータを付けてしまうことで、果てしなく広がる可能性についてお話になりました。もう始まっている未来社会の実感に、会場を埋め尽した約1000人の若者たちは想像力を膨らませていました(中略)たとえば小さなチップをクスリ瓶に付けて、人間の指にもコンピュータを付けておく。「私はこういうクスリを処方されていて、飲まなくてはいけない」ということをユビキタスに付けたコンピュータに入力しておけば、クスリを飲むたびにチェックしてくれて、クスリの投薬ミスを未然に防いでくれるシステムができるようになるわけです(中略)チップをシャツに付けておくこともできます。コンピュータがその人の日頃の体温をわかっていると、体温が上がってきたらたぶん暑いのだろうというのでエアコンの温度を下げてくれるということもできるわけです(中略)コンピュータを私たちが住んでいるこういう生活の空間の中に思いっきりたくさんばらまいて、モノというモノ全部に小さなコンピュータを付けて、今の世の中がどうなっているかを認識させる(中略)それが、「ユビキタス・コンピューティング」なのです」
この「ユビキタス・コンピューティング」の実践事例として、新たなビジネスチャンスという点からみて有望なのが、我々一人ひとりの遺伝子情報の差異を抽出し、「遺伝子チップ(ジーンチップ)」に定着するテクノロジーである。これにより、例えば個人がどのような遺伝的疾患の素因をもっているかを明らかにして、生活習慣病等の発症確率としてデータベース化することが可能になる。以下の記事を参照してみよう。
事例2:「遺伝子の個人差を90分で解析 理研などが共同開発」(2005年09月27日19時39分 asahi.com)
「1滴の血液から約90分で遺伝子の個人差を解析できる装置を、理化学研究所と島津製作所、凸版印刷が共同開発し、27日発表した。来秋の製品化を目指す。遺伝子の個人差は薬の効きやすさや副作用に関係しており、解析が簡便になることで、病院での薬の選択に生かすなど「オーダーメード医療」の実現に貢献するという。 調べたい人の血液を入れると、含まれるDNAを自動処理し、約90分で検査結果を出すことができる。従来は血液からDNAを抽出する操作などに手間がかかり、解析に半日以上かかっていた。装置は事務机の上に載る大きさで、病院が導入しやすいよう500万円以下での販売を目指す。 ある種の抗生物質で難聴が引き起こされる個人差や、血液を固まりにくくする薬の効きやすさを左右する個人差の検出で、装置の性能を確認した。何を検査するかは1人ごとに取り換えて使う検査チップ(1個数千円程度)次第だが、1回の検査で最大24カ所の遺伝子の違いを調べられる。米国では、抗がん剤の効きやすさの予測で、こうした検査が実用化されている。どのような遺伝子を対象にした検査チップを販売するかは、来秋までの研究動向をみて決めるという」
現在、こうしたデータベース化の作業を、セレラ・ジェノミクスを始めとする多くの企業が行っている。比喩でいえば、現在は、人間の共通の地図というものは分かった、ただ我々は、その意味を読み取れないシェイクスピアの本、つまりどこにどのような文字が書かれているかが分かっただけで、実際どのようなことが書かれているのかよく分かっていない本の読み取り作業を行っている。次にこの読み取りの段階でそれぞれの遺伝子の機能を、例えばある特定の癌の発現機構等をすべて明らかにするという第二段階がある。それと同時に、一人ひとりの遺伝子にそれぞれの機能があるのかないのかを明らかにすることが目指されており、(注2) セレラ・ジェノミクス等の企業戦略は、その情報を特許化して売るということである。つまり、個々人の特異的な遺伝形質に対応した「テーラーメイド治療」(注3)のために、インターネット上のデータベースにしておいて販売するという戦略がすでに進行している。なお、「遺伝子チップ(ジーンチップ)」を基盤にしたデータベース化という論点に関連して、1998年10月23日の厚生省(当時)厚生科学審議会「先端医療技術評価部会出生前診断専門委員会議事録」(p.18-19,26.)における武部委員の以下の発言が参照できる。
「武部委員(略)私は正直言って遺伝子のジーンチップというのが開発されてきますと、血液1滴でもって遺伝子検査というものは不特定多数に出来る時代がもう来ていると思っております(中略)ジーンチップは御存じだとは思いますが、血液1滴取って小さな半インチ四方のところにやると、今の段階で最大4万6,000の遺伝情報が分かるというのも開発されていますので、そういう時代が来ることを予測しないと、一々特定のことだけ言っておったのではちょっと時代についていけないという印象を持っています(中略)生命保険に遺伝情報が利用されるおそれというおそれは非常に高いと思っております。既に、家族性大腸ポリボースで生命保険の加入を断られた例が実際にあるということをある医師から聞いております。遺伝子診断の結果等を生命保険や健康保険は、利用することはアメリカでは完全に禁止する方向に行っておりますので、日本も私は是非そういう方向に行ってほしいと思っています」
このように、我々は、マイクロチップに定着され可視的なものとなった自分の遺伝子を自分の好きなように改変できるチャンスに直面する。そのとき、個々人の遺伝形質改造のニーズに対応した医療が、膨大な利潤をもたらす産業に成長する。このとき「汎優生主義」は、より生存に値する存在に我々自身を改変する際限のない志向性として機能する。
このような流れと相関して、我々が自らの社会性をどのように獲得していくのかというテーマが浮上する。我々が社会性を獲得するということは、他者との出会いにおいて、自分が万能であるという幻想を断念することである。我々は、それ以外の可能性を断念して選び取った可能性の実現を目指していく。現在、この意味での社会性の獲得が困難となっている。このテーマを、データベース装置との関わりにおいて考察してみたい。データベース装置とは、「汎優生主義」が社会的装置として配備されたものである。 
データベース装置は、我々の生存を無際限に階層化し選別するという機能を持つ。ここにおいて、「この私は他人より、生存に値するか」という問いが、きわめて切実なものとして浮上する。そのことを示していた事例として、SMAPの「世界にひとつだけの花」という作品の流行がある。この作品は、自分自身の今現在の生存より、実はもっと素晴らしい生存がいくらもあることに傷ついている多くの人々の心を癒す役割をタイムリーに果たしていた。SMAPという存在は、癒しを求める者たちにとって、傷を癒してくれるカリスマとして受け取られたのだ。ここには、この私を、優れた存在として受容し、承認してほしいという切実な欲望がある。現実世界では叶えられないが、このような我々自身の欲望が、あの歌の出現を必然とした。
データベースのレベルでは、こうした欲望は万能感につながる。我々の生存のあらゆるレベルにおいて、いわゆる生活水準、IQ、あらゆる能力を測定する試験の成績、どこに住んでいるか、(反)社会性等々、そういったミクロな、そしてあらゆる水準で階層序列化された、評価可能なデータを共有できるようになった。強固な幻想として階層序列化されたデータを共有することにより、社会性の獲得はきわめて困難となる。
次に、我々の社会において笑いを統御する役割を担っているテロップ(Television opaque projector)を取り上げてみたい。テレビ画面で多様に乱舞する文字画像のことである。テロップは、今やあらゆるジャンルの番組でありふれたものとなっている。テロップは、その編集・プロデュース機能によって我々の笑いを先取りして制御し、その笑いを「お笑い」として取り込んでいく。以前は、出演者の発話の模写であったが、現在ではむしろ「面白く要約・編集したもの(発話に対する「つっこみ」等)」が主流になっている。我々はそうした「お笑い文字画像」をいつも見せられている。こうして、「笑っていい発話」が文字画像として指示される。それは、暗黙の指示言語である。その都度の場面で我々に提示されるが、同時に、あらかじめどこかに書かれている指令として機能する。
データベースは「無いないよりはあった方がいい」ということは、一般論としては否定できない。緻密なデータベースは、個々のクライエントのニーズに対応した的確なサービスを24時間体制で提供するためには必須である。このデータベースの有効性は利潤に直結するためクローズドな状態におかれ、外部の人間がアクセスすることはできない。そのことが、この私が知り得なくても、すべての問いにはどこかにその答、データがあるはずだということである。だが、そう思えるようになったのは、巨大で進化した検索型データベースに庶民がアクセスできるようになったからでもある。検索さえできれば何でも分かるという無意識が生まれた。我々の日常の一挙手一投足がなんらかのデータとして先取りされ、自分が知りたいことも知りたくないこともすべてデータベース化されているという幻想が生じている。データベースの編集機能は、ユーザーのミクロな嗜好性まで指示的に構成する。そこに生まれる<我々自身の無意識>を対象化することは、同時に「個人」ということの内実を問う作業となる。

3.事例としての<ヒミズ>――汎優生主義のリミット
以下の論述では、『ヒミズ』の読解を通じて、「汎優生主義」の限界を抽出する。
 『ヒミズ』は、「ヤングマガジン」2001年9号から2002年15号にかけて連載された古谷実のコミック作品である。筆者が参照したのは、連載とほぼ並行して講談社より2001年7月から2002年7月にかけて刊行された「ヤンマガKC」シリーズの4巻本である。『ヒミズ』は、「より生存に値する/値しない」という価値軸が浸透した<我々自身の無意識>が偏在的なものとなった世界における個人の問題を、その限界地点において提起した事例である。(注4) 
 以下の論述では、主人公の少年の言葉が物語の展開の順序に沿って分析される。その際、対応する物語の提示は行わない。物語の枠組みは、そこで鍵となる素材として扱われる「統合失調症」や「(反社会性)人格障害」等の描かれ方と同様に、図式化を免れてはいない。だが、この図式化は、それぞれの臨床像の枠組みであるDSM4-R(米国精神医学会診断統計マニュアル第4版改訂版)やWHO国際疾病分類第10版といった診断基準が内包する図式化に対応している。
少年の言葉の分析:第一巻
[1] オレは「自分も特別」などと思い込んでいる「普通」の連中のずーずーしいふるまいがどうしても許せん ぶっ殺してやりたくなる」(1-7)
物語全体を包み込むのは、「普通」というテーマである。我々人間には、<普通/特別>という階層序列が前提されているが、これは必ずしも意識されているものではなく、むしろ無意識として機能している。「普通」の人間による<普通であること>の境界侵犯(ずーずーしさ)は、他ならない「普通」の人間からの殺意を誘発する。
[2] 「情けない奴だ 実に情けない お前 超弱い遺伝子」(1-13,14)
ここでの弱さと情けなさは、遺伝子という言葉によって結びつけられている。すなわち、弱いことの根拠は遺伝子である。弱さの根拠が遺伝子という生まれつきであるからこそ、実に情けない奴という情動が生まれる。この言葉は、1と同一の人物に向けられている。その人物は、どこから見てもどうしようもない、(少年と同年代の)文字通り情けない奴として描かれている。場面1では、お前は特別ではないのだから、超弱い遺伝子のお前も「普通」だとされていた。すなわち、本来なら「普通」から落ちこぼれるはずの超弱い遺伝子の持ち主さえも、やはり「普通」に含まれることになる。このように、「普通」とは、自己矛盾的な概念である。
というのも、超弱い遺伝子の持ち主もなお「普通」だといえるのか。むしろ超弱い点において特別ではないのかと問うこともできるからだ。だが、ここでは、「超弱い」は「普通」に属するのに対して、「超強い」の方は「特別」に属している。従って、「普通」の自己矛盾的性格の根底には、強/弱という階層序列が存在している。
[3] 「……それより何より ……たまに見える…… お前は何だ!!? ちがう! ちがうぞ!! …あれは目の錯覚だ! オレは普通だ! …正常な中学生だ!!」(1-47,48)
少年は、統合失調症の症状(幻視)に出会う。ここには、「普通」である自分は「正常」であるはずだという「普通」への少年の必死のすがりつきがある。だが、このとき、「正常」は「普通」へと飲み込まれていく。「普通」へと飲み込まれていく「正常」とともに、少年の自己もまた拡散していく。
[4] 「…オレと正造は高校へは行かない…… 中学出たらすぐに働くんだ(中略)オレはここでのんびりボートを貸す たぶん一生… ここには大きな幸福はないがきっと大きな災いもないだろう オレはそれで大満足だ どうだ? お前からしたらクソのような人生か?」(1-51,52)
「どうだ?」という少年の言葉の前後は、深い溝が隔てている。「どうだ?」の前は、このとき中学生である少年には珍しいほど成熟した言葉である。しかし、この言葉が意味するものは、「どうだ?」以降の言葉によって呆気なく消失する。すなわち、ここで示されているのは、「お前からしたら」という階層序列化の眼差しに囚われた少年の姿である。
[5] 「正確に言うと元とーちゃん オレの中で「死んだら笑える人」No.1の男だ 世の中にはよ… いるんだよ 本当に死んだ方がいい人間が 生きてると人に迷惑ばかりかけるどーしようもないクズが」(1-54)
少年の血縁上の父親は、物語において断片的にのみ描かれている。しかし、明らかに、現行のDSM-4-Rによって「反社会性人格障害」とされる事例である。一般に「反社会性人格障害」は、治療の対象となった場合でも、治療効果が悪いとされる。言い換えれば、治療困難または治療不可能とされる。その理由は、「汎優生主義」のもとでは、生まれながらの、そのままでは修復不可能な欠損に求められる。この解釈は、<我々自身の無意識>を媒介にして、少年が共有しているものである。ここでの深刻なテーマは、<我々自身の無意識>によって治療・矯正不可能とされる者との遺伝的つながりとしての親子関係を、少年が決して受容できないということである。しかし、この受容不可能性は、否定することもできないという葛藤と不可分である。親(であった者)を受容できないが否定もできないという袋小路である。
[6] 「…オレは勝負しない… 夢というリングに上るどころか見もしない だから殴られる心配もない…… オレの願いはただひとつ…… オレは一生誰にも迷惑をかけないと誓う!! だから頼む! 誰もオレに迷惑をかけるな!!!」(1-62,63)
ここでは、それだけはなりたくはないことに限って実現してしまう自滅的予言が表現されている。「汎優生主義」への無意識的抵抗は、少年の無意識自体が<我々自身の無意識>に浸透されているため不可能なものである。自己否定の対象となった少年の欲望は、自らを放棄して階層序列からの離脱を試みるという最も危険な形を取る。これ以降、放棄されながらも完全には抹消され得ない少年の欲望が、自滅への欲望として展開していく。
少年の言葉の分析:第二巻
[7] 「…たまたまクズのオスとメスの間に生まれただけだ… だがオレはクズじゃない オレの未来は誰にも変えられない 見てろよ オレは必ず立派な大人になる!!」(2-21)
言うまでもなく、ここでの「たまたま」という偶然性の主張には何の力もない。「クズ」の遺伝子しか受け継いでいないオレという自己否定の罠に陥った少年にとって、クズである他ないオレはクズじゃない(オレはクズである他ない…)という際限のない袋小路だけが残される。「立派な大人」という見守る者がいない世界において、「立派な大人になる」という宣言の意味は、他者の欲望を欠いた(同時に自己の欲望を失った)オレが自滅へと向かうことでしかない。
[8] 「…… ……死ね みんな死ね」(2-55)
他者が欠如しているため、少年にとっての他者は全くの空虚としての「みんな」に置き換えられる。同時に、この「みんな」へとオレの空虚さが投影される。ここにおいて、オレ=みんな=他者一般が攻撃対象となる。従って、少年にとっては、オレの攻撃/自殺かみんなの攻撃/抹消かという選択だけが残される。(注5)
[9] クソォ!!! 全部あいつだ! 全部あいつのせいだ!! お前のせいでオレの人生はガタガタだ!! いつもみじめな気持ちでいっぱいだ!! わかるか!! お前はオレの悪の権化だ!! 死ね!! 死んで責任をとれ!!(中略)もう…ダメだ! もうダメだ!!」(2-83,84,85)
少年にとって、父=象徴的秩序は、すでに空無化している。そのため、以後、少年の自滅への歩みは誰一人止めることのできない<宿命=我々自身の現実>となっていく。あいつ=お前=父が、死んで責任をとることはあり得ない。「もうダメだ」という少年の言葉には、こうした自己の宿命への思いが凝縮している。
[10] 「…オレが普通じゃないからこんな事になるのか?… ちがうだろ? …オレじゃなくたって………」(2-103)
「こんな事」とは、少年が父親を殺したことを指している。だが、少年は本当に父親を殺したのか? むしろ、少年にとって、それは不可能なことではなかったのか? もはや、少年にとって「普通じゃない」事は存在しない。「ちがうだろ?」という言葉は、「普通」からの脱出はもう不可能だ、またはもともと不可能だったという叫びである。今や少年にとっては、「こんな事」も「普通のこと」に違いないし、「オレじゃなくたって」誰だってやってしまう「普通のこと」に過ぎないのだ。
[11] 「…悪い奴はどいつだ? …悪い奴はどいつだ? …オレはもう普通じゃないぞ…… 特別な人間だ…… 気を付けろ…悪い方で特別だぞ… ごみ同然のあまった命…」(2-115,116,117)
にもかかわらず、というよりもそれ故にこそ、「オレはもう普通じゃない」。しかも「悪い方で特別だ」。「普通」が無際限に階層序列化される「汎優生主義」においては、「普通」はいかなる「普通じゃない」事も潜在的な序列として内包するからである。どんな不幸(普通じゃないこと)も、結局は相対的な評価/階層序列化の対象、すなわち「普通の事」に過ぎない。
少年の言葉の分析:第三巻
[12] 「要するに クズとクズの間に生まれるとそいつもほとんどクズになると… そんなクズ遺伝子は世の中からなるべく早く滅びる方向でって事か? 厳しいですな~~~」(3-98)
すでに象徴的秩序が空無化した後で、一見醒めた眼差しで「汎優生主義」に対する認識が語られる。だが、あくまでも他人事として。この認識を自分自身のこととして引き受ける<自己>は、すでに消失している。
[13] 「世の中には頭の悪い奴がたくさんいるんだ…そういう連中はいくら考えたってどうにもならない…じゃあどうする? …すべての答を行動で出していくしかないだろう?」(3-108)
「頭の悪い奴」とは、他者との関係が、<我々自身の無意識>によって乗っ取られ空無化した者たちである。あるいは、生まれつき(超弱い遺伝子により)乗っ取られる他ないような者たち。それは、自己の思考が発動しない状態に閉じこめられた者たちである。こうして、<我々自身の無意識>に駆動された「行動」のみが「すべての答」となる。
少年の言葉の分析:第四巻
[14] 「自分で自分をコントロールする自信をなくすってのも…けっこう怖い事だな… …次のきっかけをもらったら自分がどう反応するかわからない… 自分で自分を信用できない… それは要するに「もうどーでもいいや」って事といっしょだろ? …すごいな… とうとう最低の無責任野郎に成り下がったワケだ…」(4-7,8)
「汎優生主義」のもとでは、「責任」、すなわち他者の呼びかけに対する応答可能性は空無化する。「自分で自分をコントロールする」こととは、そのような他者の欲望に応える関係の生成と、それを根底において支える言語化のプロセスの作動を意味する。従って、逆にここでの「最低の無責任野郎」とは、他者を喪失した自己の喪失状態を意味する。
[15] 「わかってる そんな事は分かってるんだ…… …………バカがバカを殺す…それでいいじゃないか……」(4-70)
ここでの「わかってる そんな事は分かってるんだ」という言葉は少年の独白であるが、同時に、それは日々繰り返される<我々自身の無意識>の声=<幻聴>に対する応答でもある。無際限の階層序列化のプロセスに組み込まれた個々人の生存は、「余すところなく完璧に対象化されてしまう」という意味において、生活世界における居場所と足場を失う。ここでの耐え難い真実とは、完璧に対象化され、生活世界における居場所と足場を失った者、それは「バカ」と呼ばれるほかないということ、そして今や我々一人ひとりが、この「バカ」に他ならないということ、さらに、このような状況における我々一人ひとりの生存は、お互いの存在を抹消し合うことで自滅に向かうほかないということである。
少年の最後の言葉
[16] 「………やっぱり………ダメなのか?… ……どうしても…無理か? (……決まってるんだ)…そうか……決まってるのか……」(4-182,183)
物語の最後で、少年は、幻視が発する声=幻聴に出会う。物語において、幻視はしばしば登場するが、幻聴が幻視とともに登場するのはこの場面が始めてである。すなわち、この最後の場面では、幻視が少年に対して幻聴の言葉を語っている。幻聴は、少年の「…やっぱり……ダメなのか?… …どうしても…無理か?」という問いかけに対して、「…決まってるんだ」という、少年の生存にとって究極的な言葉で応える。この「決まってるんだ」は、<我々自身の無意識>が少年の生存に対して語る最後の言葉であると同時に、<少年自身の無意識>となった言葉が少年に対して語る最後の言葉でもある。この言葉に遭遇した少年は、「…そうか…決まってるのか…」と呟いて自殺する。他者を欠いた時空における<幻視>と<幻聴>の強制力のもとで、少年が追い求めた「普通」という生存の行き着く先=死が、<宿命=我々自身の現実>として少年に告知される。少年にとって、「普通」とは、声=幻聴となった<我々自身の無意識>が、すでに決定済みの<宿命=我々自身の現実>として告げる自滅=死を意味する。
「氾優生主義」は、すでに我々自身の生存を包み込んでいる。だからこそ、新たに思考し分析を始めなければならない地点は、まさに少年が自らの生存を抹消したあの限界地点に他ならない。(注6)

Footnote:               
(注1) 言い換えれば、「ハイリスクグループ」が選別される。生活/生命の質を階層化しつつデータ化するQOLや健康寿命といった評価尺度は、こうした状況に深く関わる。なお、「母体血清マーカー検査」についての詳しい規定と問題点の指摘を、1998/10/23厚生省(当時)厚生科学審議会「先端医療技術評価部会出生前診断専門委員会議事録」の28頁から30頁にかけて長谷川委員が行っている。
(注2)一例として、次の2004年3月13日付朝日新聞の記事を参照。
「米国立保健研究所(NIH)は11日、中年以降に発病することが多い2型糖尿病になりやすい体質を遺伝子レベルで突き止めたと発表した。DNAがわずかに違うだけで30%もリスクが高まるという。NIH・国立ヒトゲノム研究所とフィンランド国立公衆衛生研究所などが、フィンランドの2型糖尿病患者793人と、糖尿病でない413人について遺伝情報(ゲノム)を詳しく分析した。その結果、糖尿病患者には、20番染色体の特定の遺伝子の4ヶ所で、塩基の並び方が一つだけ異なる(一塩基多型)人が目立った。別のチームがイスラエルの617人のゲノムを調べても同じ結果だった。この遺伝子はインスリンをつくる膵臓(すいぞう)の細胞で重要な働きをしている。塩基の並び方の違いがあると、インスリンの分泌に異常が起きやすくなるらしい。国立ヒトゲノム研究所のコリンズ所長は「これだけで発病するわけではないが、肥満や運動不足になると危険性が高まる」と話す。1型糖尿病は子供や若い時期に発病しやすいのに対し、2型糖尿病は中年以降に発病することが多い。日本人の糖尿病患者の約9割は2型だ」
(注3) 2004年3月7日付朝日新聞の記事では、次のような問題が指摘されている。「国内大手(製薬会社:引用者付記)は一部が欧米での臨床試験で遺伝子解析をしているが、国内では皆無に近い。「日本では究極の個人情報である遺伝子検査に対する患者の抵抗感が強く、倫理指針がない現状では同意を取るのは難しい」と大手首脳は話す。オーダーメードの時代が、製薬会社の収益をどう左右するかも見えていない(中略)多くは研究開発費が従来よりも増えるのに、患者が絞り込まれ、収益が期待できないのではないかという懸念を持っている」こうした製薬会社の懸念に対して、記事で紹介されている「バイオバンク」プロジェクトリーダーの東大医科学研究所の中村祐輔教授が、「製薬会社が後ろ向きなのは残念(中略)寝たきりの人が歩けるようになれば社会保障負担も減るわけで、医療経済学トータルで考える発想が必要だ」と述べている。
(注4) 以後、『ヒミズ』(ヤンマガKC版)からの引用箇所を、例えば第4巻70頁からの引用の場合、(4-70)の様に表記する。
(注5) すなわち、「無差別テロ」としての「自爆テロ」である。
(注6) 以下に、<我々自身の無意識>に照準した分析(以下<言表分析>と呼ぶ)の方法論を提起する。<言表分析>は、「普遍化された優生主義仮説」の妥当性を検証する試みとして位置づけられる。
まず、上記仮説は、遺伝性疾患の診断、治療、予防に関わるハイテクノロジーによるQOL(生活・生命の質)向上としてイメージされ得る事例に関わる。さらに、ここでの「ハイテクノロジー」は、より広く遺伝子改変という技術的介入の総体とする。
 次に、仮説の基本成分としての「普遍化された優生主義」を、「この私の(または誰かの)生存(+)が、他の誰かの生存(-)よりも一層生きるに値する」という言説によって明示化され得る信念とする。この信念は、通常<我々自身の無意識>という暗黙のレベルにとどまる。<言表分析>は、上記「普遍化された優生主義」が充当された<我々自身の無意識>を、分析の過程を通じて言語化(対象化)する試みである。
さて、「この私の(または誰かの)生存(+)が、他の誰かの生存(-)よりも一層生きるに値する」という信念は、正/負(+/-)の価値軸としての一元的な価値尺度を前提している。よって、この信念は、「個々人のQOLは、正/負(+/-)の価値軸としての一元的な価値尺度により階層序列化可能である」という信念に置き換えることができる。さらに、この信念は、「正/負(+/-)の価値軸としての一元的な価値尺度の基盤となるテクノロジーの介入による個々人のQOL向上は正当化され得る」という信念に置き換えることができる。
 分析手法として、<我々自身の無意識>としての「普遍化された優生主義」は、「会話的文章完成法(Conversational Sentence Completion Test)」を活用したアンケート調査結果の<言表分析>を通じて言語化(対象化)されると仮定する。その際、本論の冒頭で提示した三つの質問がなされ、回答者はその質問に対して自由筆記を行うことになる。
以上の前提の上で、まず、「普遍化された優生主義仮説」を次のように定義する。
「普遍化された優生主義仮説」:ある個人Aが、「この私の(または誰かの)生存(+)が、他の誰かの生存(-)よりも一層生きるに値する」という言説形態において明示化され得る無意識的信念を持つ。
この信念は、より簡潔に言えば、「この私は他人より、生存に値する」という無意識的信念である。逆に言えば、「他の誰かが、この私より生存に値する」となる。
 上述のように、この仮説には、遺伝子改変という技術的介入によるQOL向上としてイメージされ得る事例が組み込まれる。以上から、言表分析によってその妥当性が検証される「普遍化された優生主義仮説」は、最終的には次のようなものになる。
 ある個人Aが、「遺伝子改変という技術的介入による個々人のQOL向上は正当化され得る」という言説形態において明示化され得る無意識的信念を持つ。
 以下において、若干の補足を行う。
<我々自身の無意識>は、さまざまな言説実践を通じて構成される社会的コンテクストを媒介するレベルとして想定される。<言表分析>では、発話行為や書く行為として反復される一群の言説を「言表」として主題化する。この意味で<言表分析>は、被験者による会話的文章の完成という言説実践を通じて生成される言表群の分析である。この場合、被験者の言説実践によって完成される会話文が分析対象としての言表群となる。これら言表群の生成過程を媒介する文脈を追跡する<言表分析>により、<我々自身の無意識>の考察が可能になる。なお、より詳細な<言表分析>の方法論及び<言表分析>の事例・参考文献等については、筆者のブログサイトhttp://plaza.rakuten.co.jp/zeroalpha/を参照。関連する主要コンテンツのタイトルは、普遍化された優生主義仮説・「汎優生主義」主要参考文献・「普遍化された優生主義仮説」質問票・普遍化された優生主義仮説言表分析1~5・普遍化された優生主義仮説(主要改訂部分) である。


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